自己陶酔的社会批判と無責任の関係
2002年9月26日女性がホモセクシュアルについて書くのと
戦場と係りの無い日本人が戦場について薀蓄を垂れるのは良く似ている
どちらも本質的に「責任」の介在しない作業だ
別にそれが悪いというのではなく
ただそうなのだ
責任が介在しない空間で、好きなように自己の思考を展開していくのは快い浮遊感というか、陶酔感を齎す
加えて人間の恐ろしいところは
本来責任の介在するはずの
たとえば自分の仕事や、学業や、私生活に対してまで「責任逃れ」を出来ることだ
一種の自己麻酔とでも言うべきか
意識を置かれた状況から切り離し、あたかも自分が劇の登場人物であるような、他人であるかのような捉え方、書き方をする。
突き詰めて言えばマゾヒズムであり、現実逃避なのだが
自分と自分を取り囲む世界の現実を
「観察」し「批判」し「再構成」する
その不気味な作業の影に、臆病な子供っぽさがちらつく。
戦場と係りの無い日本人が戦場について薀蓄を垂れるのは良く似ている
どちらも本質的に「責任」の介在しない作業だ
別にそれが悪いというのではなく
ただそうなのだ
責任が介在しない空間で、好きなように自己の思考を展開していくのは快い浮遊感というか、陶酔感を齎す
加えて人間の恐ろしいところは
本来責任の介在するはずの
たとえば自分の仕事や、学業や、私生活に対してまで「責任逃れ」を出来ることだ
一種の自己麻酔とでも言うべきか
意識を置かれた状況から切り離し、あたかも自分が劇の登場人物であるような、他人であるかのような捉え方、書き方をする。
突き詰めて言えばマゾヒズムであり、現実逃避なのだが
自分と自分を取り囲む世界の現実を
「観察」し「批判」し「再構成」する
その不気味な作業の影に、臆病な子供っぽさがちらつく。
コメント