『彗星の住人』
島田雅彦著
新潮社刊
純文学書下し作品について
…って笑わせるな、しかし


 おおまかな物語は常盤という華族の家を舞台にしたメロドラマで、一つの深刻な主題としてではなく、敢えて娯楽小説として天皇制の問題を作中に取り込もうという試みが特色になっている。
 天皇を明治政府の定めた尊称「陛下」をつけずに書いてみたり(実際天皇自体が敬称なのだから、〜陛下とつけるのは古来からの呼び方はではない。ミカド、オオキミ、オカミ、などの方が一般的ではあるが)、皇室の結婚問題を、主人公カヲルとヒロイン不二子の恋を引き裂くステロタイプな身分の壁として描き出すなど、ある程度センセーショナルな内容ではある。


 だがそれらは結局みな、都合の良い逃げを含んでいると云わざる得ない。

 実は作者島田は天皇制という現実に対して正面からではなく、女性週刊誌的視点のうちに引き下ろして、搦め手から攻めているのではないか。
 そうした内容の方が読者側のタブーを打ち破るに容易いと考えたのかもしれないが、むしろ道化的な手法に頼らざる得ないのは、彼の力不足の言い訳のように思える。
  
 例えば主人公カヲルは父方にアメリカ国籍の白人の血を引き、かつ母方の血統は断絶した南朝天皇家つまり室町幕府に敗れた後醍醐天皇の一族まで遡れると暗示されている。生活は安定していないが、意識としては常に「上流社会」に属し、劣等感や差別とは無縁の存在だ(あるいは痛々しい差別の描写は非常に省略されているせいかもしれないが)
 しかも、彼の一族の宿敵として描かれる現今の北朝系天皇家の像は、戦後の欧米人による視点(例えばマッカーサー元帥から見た昭和天皇)に主として拠っている。

 アメリカ人の祖父を持ち、華族の家に育ったカヲルは結局ナニを言ってもどう振舞ってもある程度安全な地位と血筋を持っているといっていい。戦争の勝利者アメリカ人の血筋が天皇制や天皇個人を批判しても日本人は誰も文句は言えないし、天皇の遠縁である公家の家柄はタブーを和らげる。

 しかしだ。真の意味で天皇制を問えるのは、勝利者ではなく、天皇を頂点とする大日本帝国から害を受けた側の声ではないのか?見捨てられた日本人中国残留孤児、補償されない従軍慰安婦、強制労働に従事させられた朝鮮人など、天皇制問題と直結した苦い植民地時代の遺産は山積みだ。
 「あれは全てウソだ」
 「戦争じゃ良くある事だ、もう水に流せ」
 「金で解決させろ」
 どう言うにしろ、天皇制が何かの決着をつけるとすれば其方の「暗い側」とではないか。そもそも何故原爆を落しただけのアメリカの視点から日本が天皇制を考慮する必要があるのだろう。

 ところがメロドラマ的手法が、タブー破壊者であるべきカヲルの、高貴な出自を描き出すや、そうした近代日本の「穢れ」は全てどこか隅へ掃き寄せられてしまう。其れは同時に作者島田をも安全でご都合な位置に留めている気がしてならない。

 かつての大日本帝国時代に産れた占領政策の落し子の扱いは実に御座なりにして、精々避けられない部分は短い教訓的逸話で包み込むと、後は新たな占領者アメリカ人ばかりを生身の登場人物として、糾弾者あるいは比較対象に持ってくる。成程いかにも今日の日本人的で読み手の共感を誘い、口当りのいい娯楽小説を装うに便利だろう。
 だが、安直さやステロタイプは匙加減を間違えれば作品を本当に毒にも薬にもならないものに仕上げてしまう。その挙句世間から不敬文学と謗られたのでは、島田自身が続編『美しい魂』出版延期の釈明で述べたように「やらないほうがマシ」ではないか?

 島田が売文家として後悔の臍を噛んでいないことを祈るばかりだ。

 と随分嫌味を言ってしまうのは、結局アメリカのアフガン攻撃を経て、日本人の激しい北朝鮮憎悪が表面化してきた西暦2002現在と本が出版された2000年との認識のズレだろうか。とにかく僕はのっぴきならない問題に対して曖昧さとか中立性を装う人間は好きになれない。

 ところでキョウキノサクラは面白いのかな?
 

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