閑話休題

2003年3月6日
 掲示板を巡っていて良く「誰々が死にました、ご冥福を」なんて記事にぶつかる。

WTCで人が二千九百人死にました、ご冥福を。
昭和の撃墜王が死にました、日本人として哀悼を。
(↑実話)

その内皇族が亡くなりました、ネットでご黙祷を…とかされるようになるんじゃないかと想うとぞっとするが。

 祈りは、死人と自分を深く結びつける行為だ。

 新聞が載せる「誰々がお亡くなり」といったお悔みの類も記者は必ず遺族とコンタクトを取って許可を得て書いているのである。有名人だろうと無名の人間だろうと。流石に天皇とかはアレだが。

 天皇が死んで、日本人が黙祷するのは、既に両者の間にはっきり
 「繋がり」
 があるからだが、しかし尚その行為は、何かを強める。

 葬式はお祭りだ、とある人は言った。誰かの死を歓談の種にする、或いは宴会の口実にするという習慣は、自分の田舎にもある。だが、席に連なれば
 「故人とのある繋がり」
 を、結果として世間にも自分にも認識させる。

 二年前の九月、WTCのテロの時、マスコミが「哀悼」の意を表したのに釣られて多少良識のある(偽悪調ではない)日記系サイトがボコボコ哀悼を表明した時、不審を感じたものだ。

 テロはある意志の表明である。
 そのテロの結果に対し、「哀悼」を、された側に「同情」を持って答えるのは、否応も無くテロの意志に対する一つの答えとなる訳だ。

 少なくとも哀悼を示す前に、死者個人について知っておくべきだ。アドルフ・ヒットラーに哀悼を示せといわれたら大抵の人間は少し考慮するだろう。
 私だったら、自分が意志を表明出来るほど知っている相手、つまり近しい知人、親戚、家族以外の死に冥福を祈ったりしない。
 
………だからといって聞かれもしないのに
「ダレが死んでも俺には関係無い、俺ってクールだから」
 と気取る俺クール君も困りものだが…

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